8/20

昨日から倦怠感と口内炎と頭痛などの症状があって、一日中うつるうつらしている。

朝、手洗いに行った際、ふと幼いときのことが頭に浮かんだ。いつも、そこでは母親が台所に立っている。姿はみえないし、日常で色々なことがあったのだと思うのだけれど、また、思い返せばいろいろと蘇るも、その場面が克明に残る。そこには、とても幸せな感じがあった。

そろそろ実家に帰ろうかな。

 

8/18

7時40分起床。しばらくして、外をみると曇っていたけれど、雨は上がっていた。

支度を済ませて仕事に行く。

日中、何も起こらずに定時を迎えて帰宅する。

夜ご飯は、たまごと小松菜の炒め物とごはん。

とても好き。

和風か中華風にするかの選択があるのだけれど、今日は和風。

砂糖 酒 みりん お酢 醤油 顆粒タイプのほんだしによる味付け。

8/16

朝から曇りのお天気だ。昨夜は、ビアガーデンに行った。

料理も食べ放題で、暑さも感ぜられなかったように思う。職場の同期4人と行ったのだけれど、日々のグチや人生について色々と話していた。その帰りに、以前、人生の幸せについて考えたことを思い出して、改めて考えていた。以下はその考えの一部である。

結婚をして形影相照らし、子供も産まれて家族団欒、円満な家庭を気づくことは、ある意味で分かり易い幸せの形で、世の中では概ねそれが普遍的なものとして取り扱われているのは、自明だ。

また、私もそこに憧れを抱いている。けれど、その傍らで、そこに身を置いて幸せを感じなかったときには、ああ、人と違うんだと疎外感を感じざるを得ないし、あるいは、幸福と思い込むために、専ら形の維持だけに身をやつすようになったときの事を考えると空恐ろしくなる。

そうすると、このまま定型的な幸せを追い求めていって良いのだろうかという疑念が消えるところを知らない。

しかし、今の所は、それ以外に道を見つけることできていない。

そこで採るべき方策は2つあって、進むか諦めるかである。少し前までは、後者にかたむきつつあったのだけれど、現在は、進んでも後悔はしないかもしれないという気持ちになってきた。頗る前向きだ。

いつもこの気持ちが続けばいいのになあと祈るばかり。

 

 

 

 

8月13日及び14日

木曽駒ヶ岳に登るため、長野まで行った。

13日は、朝5時前に起きて、すぐ支度して京都駅発米原行きの電車に乗り、それから乗り換えを2回経て、集合場所の名古屋の鶴舞駅に降り立つ。そこからは、友人と車で駒ヶ根市へと向かった。

この日は、美味しい信州そばを食べて、光前寺の閑寂たる空間を、光苔を楽しみ、もう1人の友人を駅で拾ってから、養命酒の工場に立ち寄り、夜は明治亭にてソーツカツ丼にありつく。

翌朝は、5時過ぎにホテルを出発して、ロープウェイに運ばれて千畳敷まで行く。

霧が濃くて、よく見渡せないのが悔やまれた(登山者の間では、ガスってるという言葉がよく交わされていた)。

けれど、山野草がたくさん見られて嬉しかった。

百名山のバッジも買ったし、満足だ。

早太郎温泉に浸かって、帰路に着く。

 

8/11

今週の頭に、木曜日は登山ウェアを買いにワー○マンに行こうと決めていたから本日、昼の3時に家を出て電車に乗る。昼の3時から。主要な予定をやや日も傾きつつある時間から開始せざるを得ないことに辟易する。準備が遅れに遅れて、いや違う、これは所持する金銭を念頭にあれこれと長考、葛藤しつつ、その合間を縫って、家事やら爪を切るなどしていたら、時間がどんどん食われてしまったのだ。うだつの上がらない生活に対して、揺れる座席の上で全く嫌気がさした。

けれど、駅に降り立つときには、そんないじけた気持ちは薄らいでいた。通りには蝉の鳴き声が響くだけで人通りは余りなくて、街並みは退廃的で美しく、遠くにいくつかの積乱雲がもくもくしているのをみると、ノスタルジックな気持ちなったのが可笑しかった。

そして、お店では、いい買い物も出来たし、帰りに水辺で缶ビールも空けて、帰路に着いた山の日だった。

8/10

今日は健康診断の日だ。

いつも視力検査に緊張する。そうして、その後にすぐ血圧だから、つい数値が上がってしまう。行きたいところから行くというバイキング形式でやりたいなと思ってみた。順逆の理をわきまえず、好き放題する。社会人として、逸脱する行為を空想世界に於いて為すのだ。

 

ところで今回は、検査担当のおばちゃんたちから、まあ良いんじゃないかという反応を連続して貰ったので頗る機嫌がよろしい。心配していた視力も血圧もなんなくクリアしたようだ。

つぎの一歩が軽快に進む。